2019年2月21日木曜日

略称の多用

 いつの頃からかドラマ、映画、小説等作品タイトルの略称がたびたび目に付くようになって、それが鬱陶しい。
 もとは作品が優れているゆえにファンの間で自然発生的に生まれたものかと思うけど、最近では新ドラマが始まるなりメディアや作り手の側が当然のように略称を用いるやり方がままみられ、 親しみをもってもらおうというプロモーション上の目論見があるのだろうけど鬱陶しくてかなわない。略称が与えられる作品はそれに値する知名度や内容を伴っているべきで(たびたび言及することになるから自然略称の必要性が生じる)、始まったばかりのドラマタイトルに略称は不要であろ。放送が終わるとともに記憶から失せていく有象無象に略称はふさわしくない。『逃げるは恥だが役に立つ(逃げ恥)』のヒット以来この傾向は強まっているようで、苛立ちは募るばかりである。
 逃げ恥と言えば次クールの同枠でドラマ化された『東京タラレバ娘』が逃げ恥の前進させた価値観を見事に元の場所にまで引き戻していて、呆れてしまった。

2019年2月20日水曜日

小口研磨との闘い

 小口研磨本を避けるようになってから、書店での買い物が楽しい。
 小口研磨とはその名の通り書籍の小口(広義には本の背の部分を除いた三方の辺)を研磨することを指し、書店に並んだ書籍が出版社に返品されると、再出荷に備えて汚れを落とすために小口が研磨される。ハードカバーの本が研磨されることはほとんどないが、ソフトカバーの本(特に文庫や新書)では返本されると大抵は研磨されてしまうので、書店に並んでいるソフトカバー本は新刊や重版分を除いた大部分が小口研磨本になる。
 研磨されていても汚れが落ちている方がいいではないかという向きもあるかと思うが、研磨本と非研磨本を並べてみると一目瞭然で、頁の端がぎざぎざに削れているのと真っ直ぐに裁断されているのとでは見た目が全く異なるし(非研磨本のが圧倒的に美しくない?)、手触りも全然違う。のだけど、世の中の大多数はそのようなことは気にも留めないらしく、この話をすると驚きとともに憐れまれることが多い。
 確かに小口研磨本を避けることには面倒が付きまとうが、良い点もいくらかある。まずもってきれいな状態で本を読めることは気持ちがいい(読書中小口は常に視界に入っているし、親指で押さえつけてもいる)。また、本を買うペースがうまく抑制されるということもある。わたしの読書ペースは週に2~3冊、月にすると十数冊ほどで、きれいな本を見つけたときにだけ購入することで積ん読の蓄積ペースがだいぶ緩まった。何よりのメリットは書店での買い物が楽しくなることで、目当ての本をきれいな状態で見つけた時の喜びは宝探しのそれに似ている。以前はAmazonで購入すれば検索→ワンクリックで済むのだから、買いたい本が決まっているのを書店の広い棚の中から探し出すのが面倒で苦痛だったけど、ネット書店では小口の状態が分からないという実利的な面、宝探しのようで楽しいというエモーショナルな面両方の理由が見つかると、それは途端にわくわくと楽しいイベントへと様変わりした。
 やっかいなのは店頭でなかなか見つからないマイナー本で、そもそも店頭在庫自体が僅少なのでその中できれいな状態のものを見つけるのは至難の業である。どうしても見つからない場合は諦めてネット書店で買い求めるのだが、まあ大抵は小口研磨本が届けられてがっかりすることになる。

2019年2月19日火曜日

作家の敬称問題

 ブログを書くにあたって、作家の敬称をどう処理するのかという問題が生じることに気がついた。用字・用語の統一などは個人ブログなのだし大して読まれもないのだからまあそれなりにやればいいのだが、作家・著名人の敬称がてんでばらばらというのはちょっと美しくない。
 故人に関しては簡単で、敬称なしで統一すればいい。尊敬していようがいまいが三島は三島だし、谷崎は谷崎でいい。
 面倒なのは生きている人間で、どう線引きをするか。著名度による線引きはどうか。例えば誰でも知っている、村上春樹や大江健三郎クラスの作家は呼び捨てで差支えないだろうが(さん付けだとなんとなく気持ち悪い)、山田詠美や堀江敏幸を呼び捨てにするのは気が引ける。これも理由はなんとなく。と言って、知名度は高くないものの敬意を払う気になれない相手がいるのも事実で、そういう場合は敬称なしがいいだろうか。記者ハンドブックにあたったがあまり参考にならなかった。

19/08/23追記
 別に全員呼び捨てでいいな、と思い直した。

純文学と大衆文学の境

 一般に純文学とされている小説(もしくは、純文学作家とされている作家の書いた小説)を多く読むようになって、純文学とそうでないものの境目について、ちょっとした混乱状態に陥っている。
 例えば、直近で読んだのは川上弘美さんの『センセイの鞄』なのだが、川上さんは一般には純文学作家とされていて、芥川賞、泉鏡花賞、谷崎賞等の純文学作品に与えられる文学賞を複数受けているし、『センセイの鞄』は谷崎賞受賞作なので、そういう意味では純然たる純文学作品と言えそうである。しかし、本作は私の読んだところでは文体はシンプルで装飾的でなく、それだけで純文学と言い切ることのできるようなものではなかったし(例えばヌーヴォー・ロマンのように一読しただけで純文学と言い切れる小説もあるが、その類からは程遠かった)、内容的にも中年女性と老年男性の恋愛模様が待ち合わせをしない飲み屋での逢瀬、差し込まれる当て馬男性などの描写をだらだらと(よく言えば丁寧に)重ねながら単線的に(時間軸は明示されないが、単線的に読める)進んでいくというもので、年の差、教師と教え子、老年紳士などエンタテインメント作品において使い古された要素が多々登場するせいもあってどちらかと言えば通俗的な印象を受けるものだった。終盤に幻想的な、時空間的に現実世界とは切り離された場所での描写が一章分挟まり、そのおかげでやや持ち直すものの、結末の付け方も通俗的に思われてならず、作品全体としてもやはり通俗小説寄りと言わざるを得ないのでは、という感想をもった。
 にも関わらず『センセイの鞄』は谷崎賞を受けていて、世間的には純文学とされているようで、何をもってそうみなされているのかちょっと分からなかった。川上さんが純文学作家だから、というバイアスがあるのかもしれないが、純文学かどうかは作家でなく作品単位で考えるべきであって、だから漫画『響 ~小説家になる方法~』で純文学とは何かと問われた主人公が「三島、太宰、芥川……」などと作家名を連ねるのは誤っている(例えば三島由紀夫や遠藤周作も通俗的な小説を書いているし、遠藤の『真昼の悪魔』なんかは通俗的なうえにくだらなくて驚いた。ドラマ化されたらしいが見る気はしない。加えて言うと坂上忍による帯の文言があまりにも馬鹿らしかった)。もちろん通俗的なものは書かない純文学一本の作家も存在するので、そうした作家は純文学作家と呼んで差支えないかと思う(大江健三郎とか。『個人的な体験』の結末が通俗的という批判もあったようだが、通俗小説というわけではない)。
 一定の数を読んでいると自分の中でぼんやりした基準のようなものができてはくるもののそれが妥当だともあまり思えないので、ある程度コンセンサスのとれた評価スケールなんかがあると便利そうだが、純文学 or notの線引きなどに興味のある人間がそう多くいるとも思えず、業界的にもそんなものは必要としていないのかもしれない(ごまかしておいた方が好都合な場面が多そうである)。

2019年2月15日金曜日

吉行淳之介について


 吉行淳之介『夕暮まで』を読んだ。
 吉行と言えば60年代以降数々の文学賞(純文学)の選考委員を務めていて、『夕暮まで』に関しては野間文芸賞を受けていることから、まあ相応の水準以上であろうと手に取ったのだが、読んでみて驚いた。全く面白くないのである。もちろんエンタテインメントを求めた上での面白くない、ではない。
 それで、一応は一定の評価を得ている作家なのだし私が理解できていないだけかもしれず、何とか良いところを探そうとなるべく丁寧に、ゆっくり読んでみるのだが、やはりわからない。それどころか、丁寧に読めば読むほどそもそも文章が下手糞ではないか……?などと思ってしまって、だんだん苛々してきた(同じ語をすぐ近くで何度も繰り返したり、とにかく文章というものへの感度が低いとしか思えない記述が目立った)。他人の意見にもあたろうとレビューサイトをあれこれ見てみると、もちろんマイナスのことも書いてあるが、楽しんで読んでいる人が多数派に見えてさらに苛々してしまった。あるいはたまたま『夕暮まで』が吉行作品の中では駄作なのかもしれないとも考えたのだが、そのようなことを書いている人もない。
 ダメもとで、面白くないものをきちんと面白くないと言ってくれそうな学者や作家のブログでワード検索していると次の記事が見つかった。


「しかし蓮實先生が、吉行などという三流作家が好きで好きでたまらないなどというのはよほどのバカであると書いたのだが、私もまあ、バカとまでは思わないが、どこがそんなにいいのか訊いてみたい。」
「吉行の小説の凄いところは、読んだあとで中身を全然覚えていないことである。最初は覚えていたのがだんだん忘れるのではなくて、読むそばから忘れるのである。まるで魔法である。それじゃ面白いはずがない。」
 この辺りには笑ってしまった。特に後者に関してはその通りで、『夕暮まで』では貞操を守る二十歳そこそこの女性が中年男性のものを素股するシーンが有名なのだそうだが、そんなシーンがあったこと自体完全に忘れていて、ウェブ上のレビューを読んでいて思い出したのだった。読了後すぐにレビューにあたったにも関わらず、である。
 また、村上春樹も『若い読者のための短編小説案内』の中で吉行を取り上げて、下手糞だがその飾らなさがいい、といったようなことを書いていて(同書では、適切な批評は必要だが、その小説の良いところを見つけるような読み方をしたい、この間読んだあの本がこうこうこうで良くってさ……と仲間に話したい、などということも書かれていて、村上春樹の今どきの若者的イケてる感覚を持ち合わせたオジサン性が佐々木俊尚や糸井重里と重なった)、やはり下手糞には違いないのだな、と胸をなで下ろした。
 さすがに一作しか読まずに判断するのも申し訳ないような気がするので、気が向いたらあと何作かは読んでみようと思う。小谷野さんのブログ記事から察するに、無駄に終わりそうではあるが。