2019年2月19日火曜日

純文学と大衆文学の境

 一般に純文学とされている小説(もしくは、純文学作家とされている作家の書いた小説)を多く読むようになって、純文学とそうでないものの境目について、ちょっとした混乱状態に陥っている。
 例えば、直近で読んだのは川上弘美さんの『センセイの鞄』なのだが、川上さんは一般には純文学作家とされていて、芥川賞、泉鏡花賞、谷崎賞等の純文学作品に与えられる文学賞を複数受けているし、『センセイの鞄』は谷崎賞受賞作なので、そういう意味では純然たる純文学作品と言えそうである。しかし、本作は私の読んだところでは文体はシンプルで装飾的でなく、それだけで純文学と言い切ることのできるようなものではなかったし(例えばヌーヴォー・ロマンのように一読しただけで純文学と言い切れる小説もあるが、その類からは程遠かった)、内容的にも中年女性と老年男性の恋愛模様が待ち合わせをしない飲み屋での逢瀬、差し込まれる当て馬男性などの描写をだらだらと(よく言えば丁寧に)重ねながら単線的に(時間軸は明示されないが、単線的に読める)進んでいくというもので、年の差、教師と教え子、老年紳士などエンタテインメント作品において使い古された要素が多々登場するせいもあってどちらかと言えば通俗的な印象を受けるものだった。終盤に幻想的な、時空間的に現実世界とは切り離された場所での描写が一章分挟まり、そのおかげでやや持ち直すものの、結末の付け方も通俗的に思われてならず、作品全体としてもやはり通俗小説寄りと言わざるを得ないのでは、という感想をもった。
 にも関わらず『センセイの鞄』は谷崎賞を受けていて、世間的には純文学とされているようで、何をもってそうみなされているのかちょっと分からなかった。川上さんが純文学作家だから、というバイアスがあるのかもしれないが、純文学かどうかは作家でなく作品単位で考えるべきであって、だから漫画『響 ~小説家になる方法~』で純文学とは何かと問われた主人公が「三島、太宰、芥川……」などと作家名を連ねるのは誤っている(例えば三島由紀夫や遠藤周作も通俗的な小説を書いているし、遠藤の『真昼の悪魔』なんかは通俗的なうえにくだらなくて驚いた。ドラマ化されたらしいが見る気はしない。加えて言うと坂上忍による帯の文言があまりにも馬鹿らしかった)。もちろん通俗的なものは書かない純文学一本の作家も存在するので、そうした作家は純文学作家と呼んで差支えないかと思う(大江健三郎とか。『個人的な体験』の結末が通俗的という批判もあったようだが、通俗小説というわけではない)。
 一定の数を読んでいると自分の中でぼんやりした基準のようなものができてはくるもののそれが妥当だともあまり思えないので、ある程度コンセンサスのとれた評価スケールなんかがあると便利そうだが、純文学 or notの線引きなどに興味のある人間がそう多くいるとも思えず、業界的にもそんなものは必要としていないのかもしれない(ごまかしておいた方が好都合な場面が多そうである)。